上田城とともに真田丸で
活躍する沼田城。

どこにあり、どのような城で、
どのような運命をたどるのでしょうか?

沼田城の地図



沼田城を上田城が入る地図で見てみましょう。

上田城から国道144号、145号線に沿って
東北東へ抜けると沼田城があります。

その間には、岩櫃城があり、
この街道沿いの城を押さえることにより、
この一帯の支配を固めることができました。

  


更に引いた地図を見てみましょう。

沼田城は関東平野から、中越へ抜ける
ルート上にあります。

この地を押さえることにより、
中越から関東平野に抜けられる
道を押さえることになります。

また、沼田から岩櫃城を
抜けてゆくと上田、松代と信州へ
進むことができます。

  


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どのような城だったのか?



1532年に、沼田顕泰により築城されました。

北関東の要衝に建てられた沼田城は、
1590年の小田原征伐の戦後処理において、
真田信之が城主となるまで、不安定な時代が
続きます。

1532年から北条家と上杉家が代るがわる
支配します。

1578年、上杉謙信の死後に起こった御館の乱に
より沼田城は北条氏によって支配されます。

この後、1580年に武田家家臣だった真田氏が
調略により無血開城させ、北条、上杉に加え、
武田氏も支配に加わります。

沼田氏は沼田景義が沼田城奪還を目指しますが、
1581年に真田昌幸の謀略により滅亡。

1582年、織田軍の甲州征伐が行われ、
沼田城は織田家の支配下に一時期置かれます。

甲州征伐により武田宗家が滅亡、
その後本能寺の変があり、沼田の地は、
上杉、北条、徳川による争いに巻き込まれます。
天正壬午の乱の一端です。

徳川と北条の同盟成立により、この争いは
収束します。
この同盟時に、真田家は徳川についていますが、
同盟と引き換えに、徳川が沼田を北条のものと
するとしたため、真田家の支配にあった
沼田城は、北条家のものになりかけます。

これを不服とした真田氏に対し、1585年、
徳川氏は上田に出兵。第一次上田合戦が
起きます。この時、北条が沼田に攻め込みますが、
よく守り、引き続き真田氏の支配下に
置かれました。

沼田領の帰属問題は、1589年の秀吉の裁定により
沼田領は真田のものとなりますが、
これを不服とした北条氏が、占領し、
秀吉による小田原征伐のきっかけとなりました。

小田原征伐が終わると、沼田城に真田信之が
入り、ここから1615年の大阪夏の陣まで、
安定して真田信之が城主となります。

夏の陣の後は、信之は本拠を上田に移し、
長男 真田信吉が沼田を治めます。

1632年には、信之は松代藩へ加増移封となり、
松代藩の分領として沼田領が存在することに
なります。

・・・それで、その後、沼田城にとって
重要なのが、1658年、沼田城を納めていた、
真田信利により、松代藩に対抗するために、
五層の天守を建てたこと。

1681年、信利の暴政と、江戸両国橋架替えの
用材調達の遅延により信利が改易され、
沼田藩が廃藩、1703年まで天領となったこと。

1682年には、沼田城が破却され、堀も
埋められてしまったことです。

戦国の世では、大大名による争いに
巻き込まれ、泰平の世になっても
五層の天守が建ったり、破却されたり
沼田城は時代に弄ばれたかのような
運命をたどります。

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