真田信之氏はあまり目立っていませんでした。
でもこの方は、文武に優れた切れ者なのです。
真田家を明治維新まで存続させる
礎を築いた人なのです。
どんな人だったのでしょうか?
真田信之さんのプロフィール
時代:戦国時代 - 江戸時代前期
生誕:永禄9年(1566年)
死没:万治元年10月17日(1658年11月12日)
父母:父:真田昌幸、母:山手殿(寒松院、宇多頼忠の娘か)
妻:
正室:小松姫(徳川重臣 本多忠勝の娘)
側室:清音院殿
側室:右京
身長:185cm
戦国時代から江戸前期にかけて生きた人の中では
長生きで、背が高かったことがわかります。
江戸時代前期で平均寿命が50歳ですから、
90歳超えは凄いです。
※平均寿命については諸説あります。
大体50歳くらいと考えていいと思います。
2014年で日本人男性の平均寿命は80.5歳ですから、
現代でも通用する長寿な方です。
戦国時代~江戸時代は身長も男性で160cm位なので、
巨漢と言えます。因みに家康は155cmと
言われていますね。
温厚だったとも伝わっています。
※子孫の方々にそう伝わっているそうです。
リアリストでもあったそうです。
夫婦仲もよく倹約家でした。
小松姫が亡くなった時は、信之は
「我が家から光が消えた」と落胆したそうです。
倹約生活のおかげで、松代転封時には20万両を
持っていたとも言われます。
大きな体に、温厚な性格、夫婦仲もよく、
倹約家でお金持ち・・・。
完璧超人と言っても過言ではありませんね。
17歳で城を奪還?
真田信之氏は、温厚であっただけではありません。
17歳にして800騎を従え、6倍の兵力を超える守りを
備える城の奪還を果たします。
天正10年(1582年)10月、離反した真田氏征伐の為、
北条氏は沼田へと軍を向け、信幸を大将とし真田軍800は
手子丸城救援の為に駆けつけるも、時既に遅く城は
陥落した後のことです。
この時は、城の守備が手薄である北の丸から
工作隊を潜入させ、「裏切り者が出た」と触れ回らせて
火を放ちます。
この時北条方は同士討ちをするほどの
大混乱に陥り、この隙を突いて50名ほどの手勢を率いて
自らも槍を取って突入します。
正面に展開していた兵100名が挟撃し、
ついに手子丸城本丸の奪取に成功します。
信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げた(『加沢記』)。
第一次上田合戦でも活躍
第一次上田合戦では、徳川軍7000に対して、
籠城戦が繰り広げられます。
この時、真田信之は300の兵を率いて、
砥石城に布陣します。
徳川軍を率いていたのは鳥居元忠ですが、
昌幸の策により二の丸まで攻めこむも、
待ち構えていた真田軍の反撃にあい、
先鋒が混乱しつつ後退します。
城から逃げてくる軍勢と、攻めこむ軍勢で
入り乱れます。
昌幸の策略により、城下にも火が放たれ、
混乱に陥り、撤退を初めます。
上田城からは本隊が追撃を開始、
この時、機を見計らうように、
真田信之が側面から攻撃、
矢沢勢も加担し、徳川軍は撤退を
することになります。
寡兵で大軍に立ち向かう、真田の戦で
やはり信之は活躍したのです。
まとめ
どうでしょうか?
真田信之、凄い人でしょう?
温厚で、身体的にも恵まれ、現実的、
倹約家でお金持ち、しかも夫婦円満。
見上げたものです。
こういう人物に、私はなりたいですね。
関が原の合戦後、西軍についた
父・昌幸と、弟・幸村を助けたり、
流罪となった後、経済支援をしたり、
自身は時の流れを見て、徳川家に
忠義を尽くしたり・・・。
※それはまたの機会に書きたいです。
大変なご苦労をされていますが、
私はこの方が大好きです。
タイムマシンがあったなら、
どこかで一服されているところに、
会いに行きたいですね。
美味しい茶菓子でも持って。
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